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2007年10月19日 / 精神科医

 私は市立勅使川原病院に勤務する医師である。

 専門は精神。鬱病やら躁病やらといった人達の治療をしている。または犯罪者の精神鑑定をしたりもする。精神科というとなんだか暗くて地味なものと思われるかも知れないが、実際は割と忙しい。なぜなら、日本ではまだまだ精神分析的な知識を持っている精神科医が不足しているからだ。この人は正常なのか、異常なのか。異常だった場合、どのように接したらコミュニケーションすることができるのか?

 この仕事は自らの判断力に頼るところが大きい。過去のデータ、自分の経験などから患者を解体する。この人が嘘を言っているのか、本当のことを言っているのか。いくつものパターンの中から該当するものを照合し、最後は自分で判断する。

 何より一番難しいのが嘘を言っているのか否かだ。フィクションの世界では嘘を付くと癖が現れることが多いが、現実はそうもいかない。嘘を付くと声がうわずるとか、発汗するとか、そういう状態になる人もいることにはいるが、そうでない人の方が多い。

 そういった場合は様々なテストを患者に対して行う。結果、総合的な判断が求められる。結局、最後に判断するのは自分というわけだ。

 これだけならまだいい。嘘を付いているか否か。正解か不正解か。それだけしかないからだ。

 問題はそうじゃないパターンも存在する・・・・・・・・・・・・・・・・・・ということだ。

 そう、あれは……2年前のことだった。

 ……。
 …………。
 ………………。

 その患者は興奮状態にあった。

 患者の名前は山田由兵衛(29)。よしべえとは凄い名前だと思いつつも、そのことは内面に留めておく。

 見るからに発汗しており、身体中から水分が蒸発していってるように見える。一体、なぜ彼はこんなにも興奮しているのだろう。いや、興奮などしていないのか。単なる汗っかきで、こちらが早合点しているに過ぎないのだろうか。

 この仕事で一番嫌なことは、すぐに人の言動を解体してしまうことだ。そして、どんな意味が籠められているのか、嘘なのか本当なのか、を判断してしまう。そこから人の思考回路に入り込み、その人そのものをバラバラにしてしまう。自分に対する感情を知って恐怖する。結局のところ、コミュニケーションが大事なのに、深いコミュニケーションがとれなくなる。

 話が逸れた。
 この患者は何かに怯えているらしい。興奮というよりは軽い錯乱状態が近い。だから消耗している。精神が酷く狭窄しており、まともにコミュニケーションがとれる状態にないのかも知れない。

 「足音が聞こえてくるんです」
 「足音ですか」

 突拍子もない言葉だった。幻聴が聞こえるとはどういうことだろう。耳鼻科の医師でも紹介した方がいいのか。それとも――。

 「ヒタヒタと、背後に。振り向いても誰もいないんです! けど確実に! その足音は僕に迫ってくるんです!!! ヒタヒタと! ヒタヒタト!!!」
 「落ち着いてください、山田さん」
 「はぁはぁ」
 「貴方はいつから、その……足音ですか。それが聞こえるようになったんです?」
 「丁度……1年くらい前でしょうか。29歳の誕生日くらいからだった気がします」
 「その足音は、今でも?」
 「はい。その音のストレスで眠れなくて、どうにもならんのです」

 嘘を言っているようには思えなかった。だが、本当のことなわけがない。現に彼の背後には何もないのだから。

 なら幻覚なのか? 幻聴なのか? 彼が聞こえている? 見えている? ヒタヒタと迫る足音とは何なのか?

 彼はマジだ。目がマジだ。彼はマジで足音と向き合っている。だから困っている。

 けどもわからない。一体足音とは何なのか? 一種の幻覚症状と見るのが無難なところかもしれないが……。はてさて。

 ふと、彼のカルテを見る。そして至極簡単なことに気付く・・・・・・・・・・・・・・。ピンときたというヤツだ。そうかそうだったのか。なんだ、簡単なことじゃないか――。

 「わかりましたよ、山田さん」
 「何がですか?」
 「貴方の聞いていた足音です」
 「本当ですか? もう何軒もの医者に断られたんですよ? 忙しいから帰ってくれとか、冷やかしは勘弁とか言われてたんですよ?」
 「いや、貴方は実際に足音を聞いていたんです」
 「そうですよ、そりゃそうです」
 「問題はその足音が何なのか? ということです」
 「何なんです?」
 「それは――」
 「それは?」
 「三十代の足音です」
 「……え?」
 「貴方、さっき29歳の誕生日くらいから足音が聞こえるようになったと言いましたよね?」
 「はい」
 「貴方は知らず知らずの内に、30代への足音を聞いていたんです。そして、30代になることに恐怖を感じていた。そんなに自分は成長できているのか? 精神が成長せずに、肉体だけが歳を重ねているのでは? とそんな恐怖に囲繞されていた。様々な自問自答を重ねていた。そんなストレスが生み出した音。それが30代の足音だった」
 「……確かに。ああ、言われてみると……そうなのかも……知れません。僕は30歳になることに恐怖を感じている。子供の頃からすれば立派なオッサンともいえる30代への突入。それが怖かった。――いや、だからといって……こんな! 足音が聞こえるなんて!?」
 「強力な精神的イメージが幻覚を作り出してしまうことは良くあります。いや、正確には幻覚ではありません。ストレスから自己を解放する為のビジョンです。そうやってビジョンを作り出すことで、本来のストレスから解放されようとしているのです」
 「確かに。30代への恐怖なんてすっかり忘れていた」
 「貴方、明日が誕生日だ。だから、もう時期、足音も聞こえなくなるでしょう」
 「そうですか」
 「はい」

 暫くすると患者は病室から去っていった。

 ………………。
 …………。
 ……。

 多忙な日々は続く。

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